鴻 晩酌



この屋敷自体の大きさはかなり広いものだが、屋敷の周りには森しかなかった。
そのため、昼も鳥のさえずりが聞ければ良い方だが、夜はそれ以上に静寂に包まれる。

ある日。
日付が変わりそうな時分、仕事から帰宅すると、自室には既に布団が敷かれていた。
久しぶりに夜だけのシフトだが、ここに帰ってくると、やはり疲れていたのだなと思わせるような脱力感が襲う。
しかし肉体的な疲労とは裏腹に、思考は冴えていて眠気はない。
どこかで、寝なくても活動できるのは疲れ過ぎていて脳が麻痺しているのだと聞いたことがあるが、それが事実であったらと私は震える。

私はそんなことを巡らせながら、丁寧に敷いてある布団を通り越して障子を開ける。
暖かい部屋に入ったからだろうか、帰り道を歩いていた時より風がひやりと感じた。
「眠れないんでしょう」
静寂な中聞こえた声に振り向くと、少しばかり開けておいた部屋の襖から、彼女の顔が覗いた。
綺麗に分けられた前髪から、整えられた眉と瞳がはっきりわかる。長い黒髪は垂らさずきっちり髷の形に結っており、まるで江戸時代のそれだ。赤い大きな蜻蛉玉のかんざしは紫色の小袖によく映えて、彼女が歩くたび、かんざしの金飾りがしゃらしゃらと揺れる。
彼女の身なりは、この屋敷にとてもよく溶け込んでいた。

「お鴻姐さん」

鴻はこの屋敷の女中の中で、最年長であった。
だからなのか、それとも包容力のある振る舞いや話を聴くのが上手いところからか、自然と姐さん呼びになっていた。
彼女には「ひとつしか年違わないんだからやめてよ」と言われていたのだが、彼女も普段私のことを旦那様とは呼ばない。かといって、男女間の親密な間柄はかけらもなかった。
「今日はたった今帰ってきたんです」
「あら、そうなの。今日も今日とて眠れないと思ってたのに」
彼女は、私が夜部屋にいる日、そして彼女の夜勤の日、こうして戸締りの確認がてら私の部屋を覗くのだ。そして決まって、彼女の手には日本酒の酒瓶。
「勘弁してくださいよ、お鴻さん。散々仕事で飲んでるんですから」
私はやれやれと言うと、ふてくされた素振りで勝手に回廊に座って酌し始める。
彼女は女中の中で最年長かつ唯一成人でもあった。つまり、女中の中で彼女と酌み交わせる者はいない。
だからこうして私のところにやってくるという理由を、私は知っていたし、また私が、毎晩疲れていても眠れずひとり寂しく夜更けまでを堪え忍んでいることも、彼女は知っていた。

「いいじゃないの、眠れないんだったら話そう。アタシは飲むから。光さんの愚痴を肴にしてさ」


彼女の晩酌に、私の身の上話はとても良く合う肴らしい。


「光さんは眠れない時間紛れるし、アタシはお酒が飲める。いいじゃないのさ」


そんな、なんの利益もない取り引きじみた彼女の考えが私は結構好きだった。
わかっているからこそ、お互いの酒と肴に適度に付き合える。その距離感が、好きだったのかも知れない。


彼女との晩酌時間は今宵も夜更けまで続いた。




fin