歩調



「改めまして、朔と申します。これは妹のすずです。先程の無礼をお許し下さい」

朔と初めて顔を合わせたのは、彼女の妹のすずがはしゃいで下着一枚で廊下を疾走していたところに、私が鉢合わせし、散々に「ヘンタイ!」と罵られた後だった。すずのトンデモ話と嘘泣きを間に受け、危うく朔にまでヘンタイ容疑をかけられていたところを、藤桜や雛菊の弁解により誤解は解けた。
朔は深々と頭を下げ、すずにも強要する。
「いいんですいいんです、誤解が解けて何よりですから」
彼女は静かに頭を上げたあともしばらく神妙な面持ちをしていたが、もう一度軽く会釈をしすずを引きずるように部屋をあとにした。

朔は、なんとも不思議な雰囲気をまとった人だった。
黒い髪をうなじが見え隠れするあたりで切り揃え、化粧気がない白い素肌に紅い唇はまるで日本人形のよう。基本は物静かで表情を面には出さない。言ってしまえば普段は何を考えているかわからない、そんな性格が一層存在を引き立てた。
仲が良いといえば、最年長で古株の鴻だろうか。朔はひとり行動を好んでいたようだが、夜学で帰宅の遅い朔の帰りを待ち、毎晩夕飯をしつこく用意していた鴻に折れて、話すことが増えたらしい。
しかし朔は誰よりも仕事を卒なくこなし、一切の無駄がなかった。
鴻と仲良くし始めてから、細かいことにはこだわらない主義の彼女の少々雑な仕事ぶりを「それではいけません」と窘めるようになった。鴻もそんな朔とのやり取りに口では細かすぎなどと言いつつ、内心喜んでいた。

「旦那さま、清拭にあがりました」
朔がある朝、私の自室にきた。
私は体調を崩し数日寝込んでいて、彼女たちの世話になっていたのだ。
「あーお鴻さんにはもう良いって言っておいたんですが…」
一昨日昨日と、鴻が清拭をしてくれた。
酒は入っていないが、彼女はいつもの調子で盥に蒸しタオルを用意して「他人の体を拭くの楽しい」とわけがわからないことを言いながら私の体を拭いてくれた。
女中といえども、年頃の異性に清拭を頼むのは忍びないし居心地が悪い。初めはそう言って断ったのだが鴻が強引に迫るので、諦めて託したのだ。最近は鴻だからいっか、という気持ちになっていたのだが、今日に限って朔がきた。
 「鴻が私用で出かけたので、自分が代わります。…ご不満ですか?」
「いえ、不満じゃないです。でも、嫌でしょう?」
「仕事ですので」
朔は淡々と蒸気の上がる湯にタオルを一度さらして絞り、盥の淵に置く。彼女の表情からはやはり感情は読み取れない。私はなぜか身構える。
スッと、彼女は布団の上で半身を起こしていた私の背後に回ると、ふわり、白いバスタオルを肩越しにかけていく。鴻はいつもそんな事しないのに、とその違いに気づくかどうかというところだった。
「失礼します。」
そう言い、朔はそのまま背後に膝立ちし、肩越しにかけられたタオルの内側に両手を入れ、私の着ていた着物の襟に手をかける。そして軽くククッと上に持ち上げた後、開くよう後ろに引いた。すると帯から多少緩くなった着物は、器用に肩越しのタオルの間からするりと落ち、上半身を露わにさせる。だが、タオルのおかげでほとんど露出はなくぬくもりも残っていた。
「右腕からお拭きします。寒くありませんか?」
「え、ええ、大丈夫です」
彼女は私のどぎまぎした返事を聞くと、右腕、左腕、胸元、背中、と順に拭いていく。私はあまりの手際良さに唖然としたが、すぐに安堵した。
「慣れていますね」
その言葉には「そうでしょうか」といつもの素っ気ない返事があると思ったが、その手が少し止まり、間をつくった。
「看護の勉強をしていますので」
と、彼女は呟いて、再び手を動かし始める。
「看護のお勉強ですか。なるほど、通りで手際が良いのですね。納得です」
私は言葉以上に、その返事から普段の朔の無駄のないてきぱきとした素行について、納得する。
「貴女の事を貴女の口から聞いたのは初めて、な気がします」
そう、朔との数少ない会話の中で、彼女の話を聞いたのは、最初に名乗ってくれた時以来だった。彼女は自分の事を自分から話さない。無駄がない動き。その彼女が思う「無駄」に自分を語る事を含めているような、自分を語るなどおこがましいと言う雰囲気があったのだ。
「自分の事は、鴻伝いに聞いて頂けていると思っていました」
「あー確かにそうですが、お勉強の内容は初耳でしたよ」
「そうですか」
「お鴻さんはこんな丁寧にしてくれませんし。あ、不平不満ではないので」
「…そうですか、鴻にはきちんと教えておきます」
彼女は上半身を乾いたタオルで包み、着物を元に戻す。とても心地よい。身が清まった気がした。
「次は御御足を…」
と彼女は私の足元に移動しようとする。わたしはその裾を引いてそれを制止した。
「ありがとうございます、とても気持ちよくなりました。もう、大丈夫。私は動けますので」
私は素直に感謝を述べる。鴻にも背中しか拭いてもらっていなかったので、という意味もあり引き止めたのだ。
彼女は一瞬きょとんとした表情をしたが、すぐいつもの無表情に戻る。そして俯き、考える素振りを見せた。
「…そうですね。現場では清拭は自力で起き上がれない方へ行うのがほとんどです。本来もっと、体力も使って時間もかかるもの…」
彼女は自問自答のように口にする。
「動けないからとて、体を他人に預けるのは羞恥を感じるもの…それを弁えず旦那さまに行うなど……大変失礼をしました」
彼女は唐突に畳に手をつき頭を下げる。
「え?ちょっと待ってください、どういう流れでそうなったのですか?感謝をしているでしょう?」
どうも思考回路が私とは違うようだった。私のなんらかの言葉で追い詰めてしまったのだろう。取り敢えず顔をあげるように宥める。
彼女は俯きがちだったが姿勢を起こす。珍しく、彼女の頬は紅潮していた。
誤った理由を問うが、説明がうまくできないようだ。口籠る彼女はまるで彼女ではないような。
「自分は…自分は、教えて貰ったことは、その通りにできます。コピーする完璧さは、誰にも負けません。けれど、」
一旦言葉を置く。自分を語らなかった彼女が、私に語る言葉に耳を傾けた。
「けれど、それ以上のことはできません。教えて貰ったことを自分なりに工夫して、改良して、相手に合わせて行うことが、できません。貴女の行動は模範的だけれど、ロボットみたいと、学校でよく言われます。看護の仕事は対人…相手ありきのことなのに、相手の歩調というものがよくわかりません。だから、実技の授業でも、貴女にはお世話してもらいたくないと…この前も言われてしまって、」
無意識だろう、握るように太腿に立てた爪で、小袖にシワを作っていた。私は、彼女の自分を追い詰めるような言葉を聴いていた。
こうして人に話すことも、きっと少ないことだろう。理解できる。話しても受け止めてくれるかどうか、相手の目を見ただけでわかる。相手の目が、自分を語る事を拒絶している目。それを私も、散々と味わった事がある。その目を見ると、何もせずとも、語る気も失せ、自信もなくなる。動けないで、死んでいく、心。
「対人職の勉強をすれば、他人の気持ちも理解できるようになると思っていました。でも違った。そもそも人はひとりひとり違う気持ちを持っていて、しかも日によって、場面によって動いていく、教科書をどう読んでも、腑に落ちるわけがないと気がついて、絶望しました。旦那さまにも、多く失礼をしていたかもしれません」
たくさん間を置く。
彼女にしてみれば流れもあって思い切って話してみたのだろう。しかし私には、聴くべくして聴いた話だと感じた。今私に求められるもの…彼女が求めるものは、同情でも弁解でもない。
受容だった。
「話はわかります…。私が返事をするとすれば、少なくとも、私に対しては、朔さんの歩調は気持ち良いですよ」
朔は「そうでしょうか」と小声で呟いた。
私は付け足す。
「歩調が速ければ速いといいましょう。遅ければ遅いと。でも貴女は、必ずしも合わせる必要はありません。今日は遅いままがよいと思えばそう言葉にしてください。そんな日には、私が貴女に歩調を合わせます」
朔が顔を上げた。曇っていた瞳に少し光が射したようなきがした。
ーーそれで良いんでしょうか?
彼女の瞳が問いかけた。
「人って、言葉にしないとわからないこと、たくさんありますから」
その問いかけには、言葉で返す。
「少し、安心しましたか?」
「…はい」
彼女はふわりと、とても自然に、風が撫でるような笑みを見せた。
「とても」
私もつられて微笑む。
「旦那さまは、不思議なお方です」
「ふふ…おあいこ、ですね」




雲間からさす陽が、部屋から出て行く彼女の背を、静かに押していた。